AERODYNAMICS Exclusive !!
ロックスの「金ぴか帯」を作った男

エアロスミス初代担当ディレクター野中規雄さんインタビュー
〜7月6日単独インタビューバージョン〜
PART.1


忘れちゃったことが多いんだけど…

Akira:トークショウ、評判よかったですよ。大ウケでしたね。

こっちは気楽なものだったですよ。スケジュール表の上では45分って書いてあった。余裕を持って60分、一応45分の予定でって説明されたんだけど。いつまでたっても「巻き」が来ないから、おっかしいな…と思ったら、結局90分もやっちゃった。

Akira:その後、ビデオ上映と抽選会の後まで会場に残っていらっしゃいましたよね。

イベント終わって、帰っていくお客さんの表情はどうかな? 楽しんでくれたかな? 紙ジャケの評判はどうかな? 売れるかな? みたいな。そのへん、一応しゃべり終えたら会社の人間の顔に戻ってね、反応を見てました。

思ってたよりも若かったですね、来てくれたお客さんの年齢層が。オンラインショップで購入してくれてる人(19枚セット等)は40代が多かったから、そのくらいの年代なのかな、もっとマニアックな人が集まるのかな?と思ってた。ファンの年齢層が幅広いのは、やはりエアロスミスが現役だからだよね。最近も何度も日本に来て、ライブやってるバンドの凄さだよね。

Akira:トークショウは、あちこち話が飛んでいるようで、要所要所はおさえてましたよね。

台本どおり話すより、セーソク(伊藤政則氏)の話の飛び方にあわせて、その場の雰囲気でいったほうがいいかなと。いつも彼と飲んでる時の酒飲み話の「アルコール抜きバージョン」ね。実はあの後、2部があったんだよ。六本木で飲みながら、あれの延長戦になって2時間くらい。白木も来てたけど、あきれてたよね。「いつまでしゃべるんだ、この2人は」って顔して(笑)。
【註:[トークショウの司会をした白木哲也さん。紙ジャケ担当ディレクター】

Akira:野中さんのファンになりそうです…って投稿が、掲示板に来てますが。

実はね、きのう見たんだよ。反響が気になって、あなたのところ(AERODYNAMICS)の掲示板を。
「あのいい加減さがいい」とかって……、本当そうだよ、いい加減で(苦笑)。

というよりね、正直覚えてないことが多いの。佐藤さんの取材を受けたことがあったじゃないですか、黄表紙の「ウォーク・ディス・ウェイ」のインタビューで。イベントの前に、少し思い出そうとあれを読み返してみたんだけど、自分でもよくこんなこと覚えていたな…って。あれが7年くらい前かな? その後の7年で、多くの記憶が抜け落ちてる。あの本で記録として残してもらって、ありがたかったなと。あの後で、高田の取材を受けたの。だから、高田(直樹氏の話の時は、佐藤さんの本で1回しゃべってるから、同じような話だけど思い出せたんだけどね。そこから何年かたってるから忘れてることが多くて、読み直して自分で「へぇー!」とか言ってたし。

一番笑ったのは、あの後で松本さん(AF1・松本朱美さん)に、「あれは天ぷらそばじゃなくて、鴨南ですよ」と言われて、「そうなんだ。何で知ってるの?」「野中さんが言ったじゃない」って(笑)。だから、あれは天ぷらそばじゃなくて、鴨南だったと。

……鴨南って、そこまで俺は覚えてないって(笑)。彼女と僕のおつきあいも「きっかけはSWEET EMOTIONのフィルムを高校の学園祭で流したいって、借りに行ったのが、野中さんと初めてあった時ですよ」っていうから、「そんなことあったっけか!?」。僕は全然覚えてないんだけど(笑)、彼女はSWEET EMOTIONのフィルムを学園祭で上映したあたりから、エアロスミス(の魅力)にガーっといっちゃったって言ってた。【註=鴨南】

あの当時は、私設のファンクラブ(エアロスミス・リサーチ)があったの。その人たち(イベントに)呼ぶのを忘れちゃった(苦笑)。メンバーの何人かまだ付き合いがあって、ここ数年は年末に集まって飲んでいるんだけど、そのメンバー呼ぶの忘れたよ。セーソクに「あれ、エアロスミス・リサーチのやつ、来てないな」って言われて「あ、声かけてないわ」とか。ほんといい加減だよね(笑)。

彼女らの(1970年代当時の)会報っていうのを年末に持ってきてくれて、飲みながらその会報を見てると、忘れてるネタが随分あるのよ。そのファンクラブの会報のために(自分が)ニューヨーク・レポートなんて書いてたりして、そこで「エアロスミスのスタジオに、エリオット・マーフィーがいた」とか、あれ、そんなことがあったっけ?…。もう自分でも忘れてる。

Akira:忘れても当然ですよ(笑)。もう30年近く前の話ですよ。

それを昨日のように話せっていうのが無理な話で、しかもセーソクのように細かいディテールばっかり覚えてるヤツも珍しい(笑)。イベントの前の晩に大貫憲章から電話があったって言ったじゃない? そもそもエアロスミスは大貫憲章だったのね、若手音楽評論家では。

セカンド「飛べ!エアロスミス」は日本でデビューじゃない。デビュー盤を出すときに、大貫憲章に相談に行ったというのは正しいし、それで彼が(ライナーを)書いてくれたのわけで、武道館でセーソクの隣に大貫がいたって話も、本当はメインで大貫がいて、セーソクも来てた、渋谷陽一も来てたって図式なの。【註=若手評論家】

Akira:渋谷さんがラジオ『若いこだま』やって、その後で大貫さんが番組を引き継いで。セーソクさんはまだコーナーを持つかどうか…の時期でしたからね。

セーソクが今やエアロスミスを語る人物としてはメインになってるけど、そもそもエアロスミスはロックン・ロールベースだから、彼の(守備範囲だった)……まだヘヴィメタルとか言ってなかったけど……、いわゆるUFOとか(欧州のハードロックとは、エアロスミスは)流れが違うから。だから再結成して戻ってきたあたりからじゃないの。セーソクが「おれがやらなきゃ!」って、エアロスミスを応援し始めたのは。だから、そう考えると大貫憲章と一緒にしゃべるってのもありだったんだよね、一昨日のトークショウは。そういえば憲章にも(今回のイベント)声をかけてなかったな…って、後で思い出した(笑)。


野中さん長編対談収録の
「ウォーク・デス・ウェイ」
インタビュー中では黄表紙
という名称で出てきます
シングル盤の宣伝マンだった
新人時代の担当作
ミッシェル・ポルナレフ
「愛の休日」
オリコン6位の大ヒットを記録
[画像提供 Takafumiさん]


アルバート・ハモンド
「落葉のコンチェルト」
ジャケ制作なども担当したとか


エアロスミス発掘は入社3年目


Akira:トークショウでも話が出てましたけど、日本でのデビュー盤「飛べ!エアロスミス」を出そうと思ったときが、入社して3年目だったんですか? 担当される前はどんなお仕事を?

僕は1972年の入社だから(発売は75年5月)、まさしく3年目だよね。CBS/ソニーは1968年に出来た会社で、実はその前にキングレコードの入社試験を受けてたんだ。そっちも受かったんだけど、ちょっと遊び心、運試しみたいな気持ちでソニーも受けてみた。そもそもキングレコードは、ニューミージックの前身というか、フォーク系(国内制作)のベルウッドってレーベルがあって、そこに配属されることになってた。

CBS/ソニーは、受け付け締め切りの日の夜に、当時六本木にあったCBS/ソニーの受け付けに願書持ってって、滑り込みで受験して、受かるわけないと思ってたんだけど「演歌やりたいです」って嘘ついて受けて、面接でも演歌の話ばっかりして、その場で「合格。内定」みたいな話になって、「まいったな」って。でも(当時)外国の資本が半分入ってる会社も、面白いかもしれないな」ていうのでCBS/ソニーに入ったら、洋楽に配属された。

もともと学生時代から、日本のアーティストも、外国のアーティストも、両方とも好きだったんだ。僕の小さいころは「洋楽曲を日本語で歌う」みたいなヒットがたくさんあった。弘田三枝子とか伊東ゆかりとか子供のころからずっと聴いていて、ラジオでも洋楽ヒットチャート番組を毎週聴いて、1位から10位まで聴いてチャートを書き写したり、来週の自分の予想をしたり。そういう洋楽やチャートに関心があった一方で、同時に舟木一夫や三田明の青春歌謡も聴いていた。60年代のはじめからレコードを買い始めて、洋楽も邦楽も両方買った。グループサウンズにものめり込んだから、ビートルズやデイブ・クラーク・ファイブ、ストーンズやアニマルズ(など洋楽ロック)と一緒に、日本のグループサウンズも聴いていて、それが高校生の時期だったんじゃないかな。

大学は1968年入学なんだけど、CBS/ソニーが出来た年で、ニューミージックマガジンが創刊されたのも同じ頃。ニューミュージックマガジンを手に、ロックのアルバムを(ジャケットむき出しで)裸で持って学校に行くみたいな大学生で、同時に天地真理が好きだった。ずっとそのへんの(洋楽と邦楽が好きな)バランスで来てるんじゃないかな? 入社した時に洋楽担当って言われて「ソニーか。まあシカゴは好きだからいいか」。邦楽に行ったら、フォーリーブスやるのもいいなとか思ってたし。商学部出身だから、面接のとき「経理どうですか」って聞かれて、「やれといえばやりますけど、でも私は経理で使うより、制作・宣伝のほうが、会社として役に立つと思います」って言った覚えはあるな。

Akira:それで制作宣伝になったわけですね。最初はモット・ザ・フープル担当で。

モットは2年目。最初の1年はラジオ局回りの宣伝担当で、自分が関わった中での一番最初の大ヒットは、ミッシェル・ポルナレフ「愛の休日」だったと思う。その次が、アルバート・ハモンドの「落葉のコンチェルト」も頑張って、ある程度売れた。シングル盤の宣伝マンだったわけ。当時のエピック・レーベルには、マウンテンやデビッド・キャシディ、「幸せの黄色いリボン」のドーンなど、バラエティに富んだアーティストがいっぱいいた。アーティストの担当ディレクターさんは別にいて、その人の下についてシングル盤をヒットさせるって役目をやってました。

その後で制作に配属されて「ディレクターの仕事ってのを覚えなきゃいけない。5つも6つもいっぺんにやると、とっちらかっちゃうだろうから、から、まず1アーティストだけ担当しろ。モット・ザ・フープルをやれ。そこそこロックなバンドだからいいんじゃない」と。その時には(モットの代表作の)『すべての若き野郎ども』は出てたし、『革命』も出てたかな。そこで(初仕事で)『ロックンロール黄金時代』をやったと。

Akira:題名を決めるところからやったわけですよね?

それこそ原題がGOLDEN AGE OF ROCK'N ROLLだからね、『ロックンロール黄金時代』しかないよね。あの頃って、どのアルバムでも曲でも、日本語タイトルがついてるじゃない。野中だけじゃなくて。その流れで普通に付けたんじゃないかな? 【註=邦題】

アルバムタイトルはすぐに決まったんだけど、曲目は悩んだかな。ディレクターってのは、こうやって曲目を付けて、営業用の原稿を書くのか、帯にはこういうコピーを書くのか…。先輩ディレクターに教えられたとおりに、何日までに書類を出して、何日までにマスターテープをチェックして、サンプルはこういう風に作って"私は(配布用に)何枚欲しいです"って申請書に書くんだよとか。

そのまんま1年間モット・ザ・フープルをやってて、その途中じゃないかな? エアロスミスの「ドリーム・オン」を聴いたのは。モット・ザ・フープルは『ロックンロール黄金時代』の後で、ミック・ラルフスが抜けてミック・ロンソンになって、だんだん変になっていくのよ。一番最後にSaturday Gigs(モット・ザ・フープル物語)っていうベスト盤にしか入ってない自伝を歌った曲があって、モット・ザ・フープル最高のバラードなんだけど。これが最後で(活動休止して)、その後はイアン・ハンターのソロ『双子座伝説』とか。考えてみると(つけた題名は)そういうタイトルばっかりだよね(笑)。

新人ディレクター時代
担当第1作
モット・ザ・フープル
『ロックンロール黄金時代』


イアン・ハンターのソロ
『双子座伝説』


野獣生誕は倉庫に埋もれていた

やはりモット・ザ・フープルは、先輩から引き継いだバンドだったからね、ぼちぼち自分で新人発掘して、売り出しもしてみたいって思うようになってたんだ。

Akira:そこでいよいよエアロスミスとの出会いになるわけですが、埋もれていた1枚目は、先輩の机の下にあったという説と、倉庫で掘り起こしたという説がありますが?

当時はアメリカで新譜が出ると、サンプルとしてLPが3枚、日本に送られてきていた。よく覚えていないんだけど、ひょっとすると『野獣生誕』は倉庫かもしれない。で、2枚目『飛べ!エアロスミス』が先輩の机の下だったんじゃないかな。

先輩に「こんなの(野獣生誕)がありました。これ最高だと思うんですが、どうですか?」って言ったら、「そのバンド、新譜があるぞ」って机の下から出てきたのが、2枚目だったような気がする。1枚目と2枚目が同時に野中の前に現れたって感じかな。

1枚目を聴いて、言葉は悪いけど、音がスカスカで「あんまりメジャーな感じはしないけど、でもこれ良い曲じゃん。いつのまにうちの会社に来てたわけ?」みたいな印象だったかな。先輩から渡された2枚目を聴いたら、全然音が違うじゃない。

実際は2−3−1(飛べ!エアロスミス、闇夜のヘビイ・ロック、野獣生誕)の順番で出したわけなんだけど、2−1−3っていうのは考えなかった。2枚目を出して(日本デビューとほぼに同時にアメリカで出た)新譜の『闇夜のヘビイ・ロック』でおっかけて。1枚目は永遠にお蔵入りの危険性もあったんだけど、売れなくてもいいからやはり出しておくかと。

当時は今みたいに情報がないから、何か月か連続でエアロスミスを出し続けないと、「ミュージックライフ」にせよ「音楽専科」にせよ(影響力のあるメジャー雑誌に)出し続けないと忘れられちゃうって考えた。その意味では(最初から手駒が3枚あって)幸せだったね。普通だったら、新人がデビューしても1枚出て、来年1枚、再来年もう1枚…っていうペースを、エアロスミスは1年で3枚を、バンバンバン!と連発で紹介できたってのは、結果的にラッキーだった。

Akira:出すと言ったときに、先輩や上司の反対はなかったんですか? 当時のCBS/ソニーのレーベルカラーとは、全然違うアーティストですよね、エアロスミスは。
(参考資料にDJコピーが登場)【註釈=DJコピー】

これが当時のCBS/ソニーだよね。そうそうたるアーティストを、先輩たちがやっていて、その中に新米ディレクターが入ってきたら、このへんの(既に人気のある)アーティストを譲り受けるか、新人アーティストを発掘するしかないわけでしょ。もちろん野中もシカゴを担当した時代もあったんだけど、入り口としてはね、自分では新人(発掘)でいきたかったの。で、探してたの。

倉庫に眠っていた?
当時は日本未発売だった
ファーストアルバム

日本デビュー作
『飛べ!エアロスミス』


「ヘヴィ・メタル」はサブカルだった


で、その時に「出したいんですけど」と言ったら、「新米がそう言ってるんだから、出させてやろうよ」みたいな感覚かな。その時に、サンタナの『ロータスの伝説』22面ジャケットを作った磯田さんが、ブルー・オイスター・カルトを売り出そうとしてた。そのときに磯田さんがフォローしてくれたのよ。「新米ディレクターが新人やるのは大変だから、一緒にやってもいいぞ」って。それで出来たのが、ブルー・オイスター・カルトとエアロスミスの抱き合わせのDJコピーでね。

Akira:これですね(…と現物を出す)

よく探してきたねぇ(笑)。…題名が、NEW YORK'S HEAVY METAL SOUND。こんなもん、本人に見せたら殺されるよね(笑)。当時はこんなこと出来たんだもんな。今もよく皆に言われるんだけど、ニューヨーク出身じゃないのにニューヨークって言って(苦笑)。

ヘヴィ・メタルはこの当時、音楽用語じゃなかった。この時はエアロスミスっていうよりも、磯田さんが「ヘヴィ・メタル」って言葉を日本に持って来ようとしてたのね。ウッドストックがあり、グラムがあり、次はヘヴィ・メタルってね。

平凡パンチとかの人気雑誌に、音楽ページの企画を持っていくときはね、音楽のほかに必ず、ファッションだったり、別の要素(サブカルチャー的なもの)を付け加えなきゃいけない。だから「ヘヴィ・メタルってなんだ?」「アメリカで流行のヘヴィ・メタル」って切り口で企画を持ってって、そこにはブルー・オイスター・カルト、エアロスミスがいるんですって言い方をするわけ。

磯田さんの言うヘヴィ・メタルの概念には、エアロスミスは音も違うんだよなと内心思ってたけど、嫌ですって言ってそこに(DJコピーや宣伝戦略に)入らなかったら、どこにもエアロスミスの名前が出ないわけだから、その流れの一番後ろにエアロスミスも入れてもらってね。そう、このDJコピーが、まさしく日本での一番最初のものだよね。

(文中敬称略)

NEW YORK'S
HEAVY METAL SOUND
(ラジオ局用宣伝LP)
表がブルー・オイスター・カルト
(BOCはニューヨーク出身)

裏面がエアロスミス
BOCと一緒にNY派でPRされた

パート1
特別付録(準備中)




註釈
【鴨南】 1977年の初来日時、ジョーたちと野中さんがそば屋に行った。ぞろぞろ着いてきたおっかけファン、注文を聞かれて「あの人たちが食べてるのと同じもの」。店中が鴨なんそばになったという伝説。トークショウでは、天ぷらそばと間違えて発言。もう1つ、ブラッドと一緒に居酒屋でスズメを食べた伝説もある。戻る

【若手評論家/ラジオの話】 当時の若手ロック評論家といえば、渋谷陽一、大貫憲章、伊藤政則の順番。渋谷氏は当時既にロッキング・オン編集長だったが、NHK-AMラジオの『若いこだま』でロックをかけるDJとして注目され、NHK-FM『ヤングジョッキー』に昇格した。渋谷氏の『若いこだま』を引き継いだのが大貫氏だったと記憶している。戻る

【ロックンロール黄金時代】 アルバムの原題は「HOOPLE」という。GOLDEN AGE OF ROCK&ROLLは1曲目の題名。曲目をアルバム題にしたのは、野中さんのセンスの産物。戻る

【DJコピー】 今回、いくつかのLPを参考資料に持参した。この時に机に出したのは、CBS/ソニーの代表アーティストの曲を1枚にまとめた宣伝用DJコピー(LP)。収録アーティストは、シカゴ/BST/サンタナ/アル・クーパーなど。戻る

【ヘヴィ・メタル】 雑誌「BURRN!」に登場するようなヘビメタと意味が異なる。現在使われているヘヴィ・メタルの概念は1980年代以降になってから。言葉の解説はこちら。
音楽雑誌の数も少なかった時代、MTVもなかった時代、バンドの名前を覚えてもらうためには売れている一般誌(平凡パンチ、週刊プレイボーイ等)にも売り込みに行った。その「載せてもらうための切り口」が、石坂敬一氏が広めたグラム・ロックに代表されるムーブメント(流行)を強調する方法。




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