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ロックスの「金ぴか帯」を作った男

エアロスミス初代担当ディレクター野中規雄さんインタビュー
〜7月6日単独インタビューバージョン〜
PART.2

クイーン、キッス、エアロスミス
3大バンドの時代・基礎知識

クイーンは、アルバム「戦慄の女王」で1974年3月25日に日本デビュー。1枚目はハードロック指向が強く男性ファンにウケたが、2枚目の「クイーンII〜ホワイト・クイーンとブラック・クイーンの啓示」で女性ファンを獲得。セーソク氏によれば「見開きジャケットの写真が美しく、それを見たミュージックライフの女性編集者が“クラクラっときた”」(写真撮影はミック・ロック)。

女性編集者がメインだったミュージックライフが大プッシュをはじめ、毎月のように表紙とグラビアに登場。この後押しもあり人気も大爆発。1年のうち半分以上の表紙がクイーンになってしまった(実話)。そして売り上げでも、当時の洋楽マーケットでは記録的なベストセラーとなった。

エアロスミスに少し遅れて、ビクター音楽産業が送り出したのがキッス。火は吹く、血は吐く、コスチュームはギンギラギンと、写真で見ても派手なキッスは、すぐに音楽雑誌の巻頭カラー・グラビアの常連になった。

エアロスミスのスティーブン・タイラーが、ミュージックライフの表紙に登場したのは、日本デビューから9か月後の1976年3月号。「あのカエルみたいな顔はなんだ」(実際寝ぼけたような顔で、良い写真ではなかった)と営業部での評判は悪かったそうだが、雑誌自体は大変よく売れ、エアロスミスの支持率が高いことが数字で証明されたという。そういえば、その号はオレも買った記憶がある。

……という基礎知識を持ってお読みください。

日本デビュー作
『飛べ!エアロスミス』



〜飛べ!エアロスミス〜

クイーンと同じ土俵で戦争をしたい

Akira:1975年といえば、クイーンのワーナー・パイオニア(当時)は、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルなどハードロック系のビッグ・アーティストがいて、東芝EMIにはピンク・フロイドやビートルズ一派がいました。かたやCBS/ソニーの代表アーティストがちょっと低迷期。その中で登場したエアロスミスって、結果的にCBS/ソニーのイメージを変えたアーティストだった言えるんじゃないかと思うんですが。

結果的に、ソニーの新しいロックの流れを作っていったことになるのかもしれないけど、当時はそこまで考えてなかったね。その時は、自分が担当したアーティスト、自分が好きなアーティスト思いっきり外にいって『吹きたい』って気持ちだね。先日のイベントでセーソクが「野中さんはクイーンがトラウマ」っていってたけど、『クイーンが大好きなのにクイーンが扱えない自分』っていうのがいたわけで、そうするとクイーンと同じ土俵で戦争をしたいって気持ちがあって、そこにエアロスミスをどうやって送り込めるかなっていうことだった。先輩のブルー・オイスター・カルトを抜くというよりも、他社のとの戦いの中でクイーンの中に入っていきたいって気持ちだよね。

Akira:CBS/ソニーがアメリカ資本の会社(アメリカ本社)だったから、コロムビア・レーベルにはイギリス型ハードロックバンドがいなかったということでもありますよね?

いなかったね。(個人的に)イギリスのロックが好きっていうのは、今も変わらない。アメリカンロックよりブリティッシュが好きっていうのは子供の頃からで、ビートルズあたりからイギリスのほうがオシャレというか。アメリカのバンドって、いつもTシャツ姿だし、汗かくし、太ってるし、長髪を後ろで結んでるな(笑)。なんとなくZZ TOPがいっぱいいるような感じだったの。そういうのが嫌で、ガリガリにやせてて、ちょっと倒れちゃいそうな(線の細い)人が、ギターやベースを弾いてるのがカッコいいんだみたいなイメージがあったのよ、野中には。1つの価値観だね。【註=ZZ TOP】

その野中の好きなイギリスの音が、ソニーにはあまりない。そういうのがいないかな…と探してたら、偶然見つかったのがエアロスミスだったのかな。「イギリスのハードロックに対抗できるアーティストを探していたのか?」といわれたら、それは間違いない。

Akira:でも「飛べ!エアロスミス」のプロモーションは苦労されたんですよね? ラジオもかけてくれなくて、雑誌にもなかなか相手にされなかったと。

さっきも言ったけど新入社員だった宣伝マン時代に、ラジオ局を制覇してたわけ。担当した「愛の休日」や「落葉のコンチェルト」は、かけ倒してた。『今週は何回ラジオでかける』って宣言してかけてたの。毎週毎週っていうと、局の担当者もいいかげんにしてくれってなるんで、1週間休んで「今週はお願いします」とかね。TBS、QR、LF、NHKまで含めて「今週はお願いしませんから、来週は一発目、オープニングでお願いしますね」って仕事して回って、深夜放送が始まると「きょうの1曲目は…」っていうと、自分が言ったとおりにかかってた…みたいな。そうすると、売上の数字がドーンと上がるんだ。

そういうのに比べると、エアロスミスはかからないわけよ、いくらお願いしても。「野中さん、これはちょっとね、なかなか難しいわ」と。さっき『若いこだま』って名前が出たけど、ああいう番組だとディレクターだけじゃなくて、渋谷とか大貫とかDJやってる人のほうから入ってって(アプローチして)、かけてもらったりとか。今で言う、オリコンのベスト10みたいな作りをやっている番組では、かかんなかったよね。

Akira:でも「飛べ!エアロスミス」が出た1975年は、FMエアチェックが中学・高校生にも大流行していて、NHK-FMではアルバム全曲かかったりしてましたよ。僕もそういう形で、最初にエアロスミスを聞きましたから。

FMではかかってたんだ? 「飛べ!エアロスミス」は個人仕事だったから、ラジオ局も雑誌も、FMレコパルも平凡パンチも僕個人が回ったんだと思う。「闇夜のヘビイ・ロック」は、チラシを作ってくれてた宣伝マンとコンビを組んで一緒に動いていたから、地方のラジオ局にも出張で回ったと思う。ある程度っていうのは、数字(売り上げの結果)も出たしね。

Akira:僕はFMレコパルで、大友良則さんがのレコ評(ディスクレビュー)を読みました。「最近には珍しい、不良っぽいバンド」って殺し文句が書いてあって。

ミュージックライフ、音楽専科、そしてFMレコパルって、ファンに影響力の強い雑誌媒体があったから。FMレコパルって結構部数も多かったし、あの雑誌を何とか(スペースを)取るためにFMの世界に強い大友さんの起用があったんだと思う。だから『闇夜のヘヴイ・ロック』のLPのライナーノーツを書いてくれって、大友さんに依頼してる。ライナーノーツをお願いするってのは、それをきっかけに、書いてください、かけてくださいって意味合いがあるわけだから、(彼を)巻き込みたかったんじゃない。

Akira:どちらかというと大友さんの守備範囲じゃないですものね、エアロスミスは。

はっきり覚えてないけど、FMをとるための戦略の1つだったんだろうね。その時は既に音楽専門誌(「ミュージック・ライフ」「音楽専科」)は、自分的には押えられてたんじゃないかな。「野中さんのエアロスミス」って。その守備範囲を幅を広げる意味でも、やっぱFMは弱いよなって気持ちがあったんだと思う。





クイーンの人気が爆発した
『クイーンII』



エアロスミスの少し遅れて
日本に上陸したキッス。
『地獄への接吻』
第3作が日本デビュー盤


〜闇夜のヘビイ・ロック〜

じゃ、アメリカじゃヒットしてるわけ?

Akira:『闇夜』は日本盤が出るころには、アメリカでも最高11位とチャートを上がっていましたよね。

洋楽やっててツライのは、「アメリカでどうなの?」って言われることなんだ。いっくら日本でプロモーションに力を入れても、「じゃアメリカではヒットしてるわけ?」って言われちゃう。『闇夜』の時はアメリカでチャートを上がってるから「もう、大変なことになってますよ!!!」。自分のプロモーションに追い風になってた。それまでのCBS/ソニーの看板アーティストだった連中がチャートに入ってない時期に、エアロスミスは入ってたわけでしょ。ということは、会社全体でも「アメリカで売れてきてるね。これ、やっぱやるべきじゃないか」って風向きがかわって、ブルー・オイスター・カルトよりもエアロスミスでいこうってなってたと思う。

で、新作(ロックス)までのつなぎで『野獣生誕』を出したんだ。数字は覚えてないけどね、『野獣生誕』のイニシャル(初回プレス)が一番少なかった。『飛べ!エアロスミス』よりも低いイニシャルで出したんだと思う。売れるはずがないっていう。

Akira:当時は新人バンドは、2000枚とか3000枚が最低ロットだったと聞きましたけど?

ちょっと違うかな。システム的にいうと、ディレクターが、営業・宣伝を前にしてプレゼンテーションをするの。「これは7月に発売したいと思います。これこれのアーティストで、こういういいところがあって、こうプロモーションしますから、売り上げも目標は2万枚です」って。企画書上は、みんな1万とか2万とか書くから、紙の上では利益が出るわけ。現実は、セールスマンが受注をとりに行くと、オーダーが800枚とか600枚とかね。そうすると前作の数字に対して、今回はどうなんだ?と問われて、2枚目・3枚目ときてるけれど、1枚目は時代も古いからそんなに行きませんと(自分が)言ってるはずだから、イニシャル3000枚とか、5000枚にいってるかどうか。数字はもうわからないけど、そういう感じ。

『飛べ!エアロスミス』は爆発的に売れてたわけじゃないけど、バックオーダー(追加注文)がかかってたんじゃないかな? そうじゃなかったら、そんなに早く2−3−1と連続で出していくってのも、営業的には拒絶反応があったはずだから、それがなくて思い通りに出せたっていうのは、バックが来てたんだと思う。



サード・アルバム
『闇夜のヘビイ・ロック』
日本盤が出たときには
USチャートで大ヒット中だった


〜ロックス〜

お前、何を考えてるんだ?

Akira:そして、いよいよ『ロックス』が登場するわけですね。そういえば、今回の紙ジャケの企画が出たとき「金帯だけは譲れない」っておっしゃったとか…?

あのね、……こだわりの帯はもう1組いるのよ。「金帯は譲らない」っていうように、もう1組譲れないアーティストがいて、もし紙ジャケにするなら絶対あの帯でいってくれっていうのがあるの。クラッシュの『ロンドン・コーリング』。これはオリジナル帯でいってくれっていうほど、思い入れがある。まさかこれ(ロックス)が出てくるとは思わなかったんだけどさ。

(ロックスの現物を手にしながら)この金帯っていうのは、レコード会社の中でいうと「特別仕様」で、こういうことをやりますって紙に書いて申請しなきゃならない、規格外のパッケージだったのね。当時の帯は、幅65ミリでインク2色か3色が決まりだった。それ『闇夜のヘビイ・ロック』は4色使ってあるでしょ。4色使うっていうのは特別申請、幅80ミリ。これも特別申請なの。自分としては担当アーティストの数が少ないから、なんとか帯に力を込めたい。そうすると(言葉が増えて)だんだん幅が広くなっちゃう。その最終形が金色の帯(笑)。企画を出したら「お前、何を考えてるんだ?」と。

でもその時、ロックスは会社としても「イチオシ」でプッシュするって決まってたから、イチオシらしく金帯で。「金帯で、スミ(黒インク)のせるだけにしますから」って言ったら「アタリマエだ!」みたいな(笑)。

Akira:『ロックス』で、ミュージックライフの「今月の1枚」がとれて、売り上げもどーんといったと。【註=今月の1枚。ミュージックライフ誌レコ評の中で、1枚だけの今月の『推薦盤』。もちろんスペースも大きかったし、ステータスでもあった】

ロックのアルバムの中では、かなり売れたね。でも宣伝方法は変わったことはやってない。ただ結果的にね、『ロックス』を取り巻く環境が、ファンの人たちが新しいものが出てきたんだと受け止めてくれたんだろうね。

Akira:「ロックス」のころには、ソニーから表紙をとれるアーティストが出たということで、会社的にもイチオシになってたわけですか?

当時のミュージックライフの洋楽における影響力って、かなり大きかったから、そこの表紙をとれるバンドがCBS/ソニーから出たっていうのは、今でいうならテレビのドラマの主題歌、例えばフジテレビ月9の主題歌がとれたみたいな、そのくらい重大なことだった。何年ぶりかで、ソニーから表紙をとれるアーティストが出た、それがエアロスミスだ…みたいな。『闇夜』がある程度結果が出て、次に新譜が出るとなったら、もう全社イチオシって体制でしょ。

Akira:『ロックス』登場時には、クイーン・キッス・エアロスミスの御三家の体制になってたわけですよね。

本当はね、クイーンに対してエアロスミスをぶつけたんだけど、数か月の差でキッスがそこに入ってきたみたいな感じだったよね。本当は「クイーンVSエアロスミス」って自分の中の図式で、クイーンに対抗することでエアロスミスをひっぱりあげようという気持ちがあったんだけど、キッスが乱入してきて三つ巴になったと。キッスのほうがビジュアルが派手なんで、雑誌のグラビアはみんな持っていかれちゃう。「なんだよあいつは、ジャマくせえな」ってほうが本当の気持ちだったよね。

でも、野中はキッスも好きだったんだよね。特にライブが。三つ巴になっちゃったわけだけど、そこにベイ・シティ・ローラーズを入れられるよりはずっといいやと。それに担当者は皆、仲良しだったし。ロック系をやってた各社の担当ディレクターってのは仲がよくて、足をひっぱりあうんじゃなくて情報交換してたの。「うちはここ2か月プロダクツがないから、その空いてるタイミングで、あそこに宣伝に行ってみたら」とか。共同戦線を張ってた。

野中には、「イメージ上のお師匠さん」がいて、それが今、ユニバーサルにいる石坂敬一さん。当時東芝EMIの花形ロックディレクターで、グラムロックを仕掛けたりとかしてた。EMIのジャケット自体もカッコいいのが多かったのね。その石坂さんに何とか認めてもらいたいっていうのが、新米ディレクターの野中にあって、石坂さんのとこにもサンプル盤を持って行った。ラジオに持っていくよりもちゃんと聴いてくれてね、「今度のエアロスミス、いいぞ」とか言ってくれて。「『野獣生誕』は最高だな、あのタイトルは」って言われて「本当ですか? 本当ですか!?」って喜んだり(笑)。

Akira:激しい表紙のとりあいはあったでしょうが、逆に雑誌側から見ても、売れる人気アーティストが毎月誌面に登場してくれないと困りますもんね。

ロックのマーケット自体はまだ小さかったけど、カルチャー的な要素っていうのは結構あったのね。例えば深夜情報番組の「11PM」で取り上げてもらうには、どうしたらいいかとか。そういう情報番組の中では、ロックは扱いやすかったの。

時代背景でいうと、学生運動なのね。言葉じゃ言わないけど「既存の勢力、権力に立ち向かう」みたいな。エアロスミスもそうだったし。さっき、音楽評論家の若手三羽がらす、渋谷陽一、大貫、セーソクって言ったけど僕と同世代だったし、小出版社で大メディアに立ち向かってた渋谷の「ロックはメディアである」なんて言葉にも共感してたんじゃないかな。団塊の世代っていう人達の中の、共有の価値観があったので、そういうのにのってたんじゃないかと思う。メディアも同世代の人たちに助けてもらったし。部長、常務とかいう人たちは、お年寄りだったし、そういう人に向かっても、ロック系は壊せ壊せと言ってたんだと思う。

(文中敬称略)



日本での人気が確立した
第4作『ロックス』


チープ・トリック第2作
『蒼ざめたハイウェイ』


野中さん入魂の一作!
クラッシュの
『ロンドン・コーリング』
12月紙ジャケ化決定
帯も完全復元なるか?
[クラッシュ画像提供]
CAREER OPPORTUNITIES


グラムロックといえばT-REX。
「ゲット・イット・オン」収録の
アルバム『電気の武者』
仕掛け人は石坂敬一氏
(当時東芝EMI発売)

【ZZ TOP】 ここを読んでる人は、1980年代MTVでオシャレなビデオクリップを連発したZZ TOPしか知らないでしょうが、1970年代は本当にムサイおっさん3人組でした。当時日本で人気に火は付かなかったけど、アメリカではバカ売れアルバムを連発していたライブバンド(1970年代はキング・レコードから発売)。戻る



パート2
特別付録(準備中)




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