AERODYNAMICS Exclusive !!
ロックスの「金ぴか帯」を作った男

エアロスミス初代担当ディレクター野中規雄さんインタビュー
〜7月6日単独インタビューバージョン〜
PART.3

エアロスミス、人気頂点へ!
ロックス、そしてドロー・ザ・ライン



昨日のコンサート曲目がネットで速報される今と違い、当時は海外情報は雑誌経由で数ヶ月遅れ。そんな1970年代、アーティストの最新情報を一番知っている人は担当ディレクターだった。ディレクターの役割は今と比較にならないほど大きい存在だったのである。

だからこそ、ディレクターの「こう売りたい」という戦略も大切なポイントだった(『野獣生誕』の“野獣”は、クイーンの“貴公子”に対抗したイメージ戦略の産物)。野中さんは、雑誌やラジオなどメディア対応はもちろん、ファンクラブの会報への情報提供、ファンからの電話応対まで1人で行っていたという。アメリカの情報が、リアルタイムで日本に入って来るのは、MTVが日本に最初に初上陸した1984年以降のこと(最初はABC−テレビ朝日系で週末深夜に放送)。

エアロスミスの人気が第1次ピークを迎える「ロックス」と「ドロー・ザ・ライン」のころの話を中心に。

野中さんのエアロ担当最終作
「ドロー・ザ・ライン」



〜続・ロックス〜

ディレクターは“エージェント”だった

Akira:トークショウで「担当ディレクターは、日本におけるエージェントでもあった」って言葉がありました。当時は担当ディレクターが日本での情報源、スポークスマンも兼ねていたんですね?

そうだね。でもレコードは売れたけど、情報は来ない。だからアメリカに行って自分で取材して、雑誌には書く、ファンクラブの会報にも書くと。

よく仕事をしたよね、考えてみると。その意味では仕事やってたと思う。ファンクラブの会報から、お客様相談室にかかって来た電話の対応まで「エアロスミスに関することは、全部野中が受けるから」ってことになってた。雑誌だって新聞だって、必ず「野中さん、いますか?」だった。野中がいなかったら誰も答えられる人がいない。でも現実には、そうそう情報は入ってくるわけじゃない。何とか情報を作らないと。

『ロックス』のころは、音楽誌がページをあけて待っててくれるから、裏切るわけにはいかない。だけど「今月のエアロスミス」と言っても、そうそう簡単にネタがあるわけないじゃん! 本当に(海外の)雑誌の小さい記事を発掘したり、小さいネタを大きくふくらましたり。ライブやったけど、事件は起きてないかとか。針小棒大って方法は使いまくってたな。

Akira:初来日のパンフでの、予想曲目も野中さんが書いてましたもんね。

何でもやってたと思う。ラジオにも出たし、「沖田豪」の名前で(音楽専科の)覆面ライターもやった。その一方で渋谷や大貫に原稿をお願いしてたね。「(ミュージック)ライフの何ページ誰に書かせる?」「今回は大貫でしょう」みたいな。そんな(レコード会社の人間としては)越権行為までやってた(笑)。編集部に「今度、こんな企画どうでしょうね?」「誰が書けるの?」「楽器の話ですから○○さんはどうですか」とかね。雑誌にあわせて、ああでもないこうでもないと、読者の立場になって考えるとかね。









〜そして初来日…の前〜

ドラマタイアップ1号も仕掛けた

Akira:僕は持っていないんですが、初来日前DJコピー『ワイルド・プラチナム』も作って、全国に配りまくったわけですよね。『ロックス』前後には、イチオシだったのでサンプル盤も自由に配れたと?

サンプル盤も大量にまいた。来日記念のDJコピー『ワイルド・プラチナム』も作ったし。『ワイルド・プラチナム』・・・。いい題名じゃないか(笑)。そういうDJコピーが自由に作れたのも、当時の流れ・慣習の1つだった。

Akira:宣伝も、煽って煽って!みたいな…。

そのころは、もうブレーキなし!(笑)

Akira:後に担当されたチープ・トリックやジューダス・プリーストの帯を見たとき、それは思いましたよ。あの宣伝文句はある種、芸風じゃないですか、野中さんの?

確かに芸風だよね(笑)。他のアーティストやっても同じだった。ワンパターンで。

でもね、私ジャニス・イアンもやったのよ。そういう一面もあるのよ。だって、ジャニス・イアンに付けたアルバムタイトルは「愛の回想録(Between The Line)」だもん。すごいよね、全然違うじゃん!って(笑)。

Akira:それは初耳です!!!

はっはっは。それは、エアロスミスの好きな人に、「野中はジャニス・イアンも売りました」っていったら「勘弁してくれよ」って言われるかもしれないから。でも、あの年代、20代後半になってくると、とりあえず仕事の幅が広がったってことじゃないのかな。
【註】ジャニス・イアンも『ロックス』と同じ1976年に超特大のヒット。

Akira:まさかTBSのドラマ班に持ってって『グッドバイ・ママ』のテーマ曲に使ってもらったんじゃないですよね?

その通り! それは私です(笑)。
思うにね、現在はドラマのタイアップって言ってるけど、一番最初にやったのはもしかしたら俺じゃないかと思う。だって、あの話が持ち上がったとき、音楽出版社がどう処理していいか、わからなかったんだから。「テレビの主題歌に、外国のアーティストの曲を使う? そんなのって、どうすればいいんですか?」みたいな。今もTBSの担当プロデューサーとは仲がいい。それが、次の『岸辺のアルバム』の「ウィル・ユー・ダンス」につながっていったんだね。そしてジャニス・イアンは「ライブ・イン・ジャパン」を録ってる。

ジャニス・イアンの
シングル2枚
洋楽チャート6か月1位独走
した「ラブ・イズ・ブラインド」。
ドラマタイアップの元祖的存在
爆発的に売れました

TBSドラマ史に残る名作
「岸辺のアルバム」の主題歌
「ウィル・ウー・ダンス」

飛び出す付録
ジャニス・イアン編
(準備中)


〜1977年初来日秘話〜

エアロ武道館を録り損ねた!

Akira:『ライブ・イン・ジャパン』と言えば、トークショウでも話が出ていましたけど、エアロスミスの『ライブ・イン・ジャパン』を録り損ねたとか・・・?

録り損ねたというより、心配だったんだと思う。『ロックス』がいくら売れたからと言って、『ライブ・イン・ジャパン』まで録るっていうのはないんじゃないかな?っていう。

その時にニュアンスは、考えたんだけど(契約面などで)面倒くさそうだというのと、ライブ・レコーディングには耐えられないんじゃないかという不安もあった。レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなど、ハードロック・バンドは、ライブを録ってもいいかもしれない。でも(エアロスミスみたいな)ロックン・ロール・バンドはライブを録っても、もしもグシャグシャになっちゃったらどうしよう・・・みたいな。

Akira:その前年の9月(1976年9月)に、パンフの予想曲目にも載ったアメリカでのライブを見に行ってるわけですよね。その時に見ても、録るという確信は生まれなかった?

生のライブっていうのは、当たればメチャクチャいいっていうのはわかるんだけど、ライブアルバムという器に納められるのかどうかっていうのは、不安があるよね。1枚目の『野獣生誕』なんか、「ライブの雰囲気をそのまま録ろうとして失敗してます!」みたいな感じがして、当時はそのライブをレコードに固定するって作業は、エアロスミスの場合は無理なんじゃないかと思った。

やっぱり見送っておいたほうがいいんじゃないかなと思って、武道館初日を見たら「うわ! 録っときゃよかった!」。テンションが高くて、すごかったと思う。業界の経験の中で、ライブのベスト3をあげろといわれたら、絶対エアロスミス初来日・武道館初日はいれると思うな。

Akira:大貫さんが興奮して、ネクタイを引きちぎったという伝説の日ですよね(黄表紙参照)。そのエアロスミスの武道館を録りそこねた経験が、チープ・トリックの『アット・武道館』につながったと。

結果的にね。そのエアロスミスの経験が『アット・武道館』につながったね。まさかアメリカ本国でまで発売されるとは思わないから・・・。チープ・トリックの『アット・武道館』が出て、武道館という存在が世界的に有名になったし、ライブを録る人があのころ急激に増えたよね。その影響は、かなりデカかったと思う。当時の社長に呼ばれてほめられたんだ。あのころ、ボーナスめちゃくちゃもらった。「もう、こんなにもらっていいんですか?」みたいな。アメリカで300万枚も売れたもんね。そのチープ・トリックの「アット武道館」は・・・、エアロスミスの初来日武道館を録らなかった反省によるという(苦笑)。




チープ・トリックの代表作
『アット・武道館』。
日本のみ発売が本国でも話題に。
US発売後300万枚大ヒット。

チープ・トリックの邦題も名作。
曲名で「売れる!」と確信した
という名作「甘い罠」収録の
『蒼ざめたハイウェイ』


〜数々の野中伝説、その真偽は?〜

『ロックス』の凄さに寝込んだ?

Akira:トークショウの中で、「野中は『ロックス』を聞いて、あまりのすごさに熱を出して会社を休んだ」って伝説の種明かしがありましたけど…。実際は、翌日の会社の会議に遅刻したときの言い訳だったと?(笑)

真実はそのとおりだね。でも、そういう話って宣伝マンとしては「言われてナンボ」だから。初来日の初日を「野中が故郷にエアロを飾った」と同じでね。言ってもらってたら、PRになるならそれでいいじゃん!みたいな感じかな。

Akira:そういうシャレを、みんながわかってた時代でもあったんですよね、1970年代は。

『ロックス』の時の「電話しまくり」ってのは本当よ。「とにかくすごいアルバムが来た」ってのは、みんなに伝えまくってた。何十本もかけた。
あの電話手法ってのは、その後でも使ったんだ。クラッシュの『ロンドン・コーリング』のとき。本当にロンドンに出張に行って、当時はダイヤル直通じゃなくて交換手がつなぐ時代に、日本に何十本か電話しまくったの。

 「もしもし野中でーす。THIS IS LONDON CALLING。それだけなんだよねー!」
って切ったりして(笑)。

向こうも「おい、野中がロンドンから電話して来たぞ」って。

Akira:かなりネタを作るのが好きだったんですね(笑)。でも、冷静に考えると『ロックス』を担当した時って、20代後半でしょ。すごい「仕掛け」ですよね。

1976年だから、28歳だ。仕掛けっていう言葉が正しいかどうか…。なんにでも手を出してたんじゃないか…と思う。セーソクもトークショウで、当時僕とよく飲みに行ったって言ってたけど、若い評論家を連れて飲みに行って、それも本当に安い居酒屋ばっかりで飲んでた。いろんなことをやっていたのが、結果的になってつながっていったんだと思うけど。・・・手抜きがなかったってことかもしれないね。

Akira:お話を聞いていると、ラジオでも雑誌でも人脈でも、種をまいていったものが『ロックス』のころに全部実ったって感じですね。

次のアルバム(『ドロー・ザ・ライン』)までやったら、自分の業務としては一区切り、もういいよと。この路線でいけば、後はアーティストがいいアルバムを作ってくれれば、回っていくよ・・・ってとこまではやったと思う。1978年には、エピック・ソニー設立準備室ってとこに移動することは決まっていたから。

移動したら、エアロスミスはコロムビアのアーティストだから置いていくことになる(担当をはずれる)ことは決まってたし。

【註】CBS/ソニー傘下のレーベルだったエピックが独立し、エピック・ソニーという会社になった。野中さんはそこで、チープ・トリックやクラッシュを売り出した。




日本での人気が確立した
第4作『ロックス』
発売前から雑誌で名作と


ファンサービスでもあったシングル。
1970年代、ロックはアルバムで
聞くのがカッコいいとされていたので
ポップス以外のシングル盤は
あまり重要視されていなかった


〜言いたいことは、すべて帯に書いた〜

『ドロー・ザ・ライン』到着

Akira:移動の前に『ドロー・ザ・ライン』が到着してしまうわけですよね。野中さん的表現では「音に凝る方向にいっちゃった」。なんか求めている方向と、違うほうに行ってしまったと。黄表紙(ウォーク・ディス・ウェイ)でも証言してますけど、「このアルバムはこう書いてくれ」とやった。メディアを騙したとは言いません、戦略にのせちゃったと。

傲慢なんですよ。悪い言葉で言えば。

その当時にはメディアは自分で押えられていたから「あの爆発的に売れた『ロックス』の次のアルバムが来ました」という状況では、もう「今月の一枚」を取らなきゃしょうがない。その時の内容はこの線でいかなきゃしょうがないっていうのが、『ドロー・ザ・ライン』の帯にあるんじゃないかな。当時の雑誌、レコ評は、あの帯の路線で絶対書いてあると思う。

というのは、この帯に書いてある言葉は実は、マスターテープが来て、コピーをして「新譜きました」と試聴テープを届けたときに、野中が口でしゃべってたことそのまんま。この言葉を何回も、何十回もしゃべって、(相手に)インプットさせちゃったっていうのが正解だろうね。その説明して回ったことを、そのまんま帯に書いたってことなんだと思う。

Akira:これは「帯が後付け」だったんですね。

後付けだね。この帯の言葉は「乾坤一擲(けんこんいってき)」って言葉が最初に出てきたんだと思う。DRAW THE LINEって言葉を放ったらかしにして出しちゃうと、コカインの意味になっちゃったりするので、ここでわざと「限度ギリギリ」という意味ですよ」と決めちゃって、読む方にも「そうなんだ」って思わせた。あと、ジャック・ダグラスの影響が強いんですっていうのも、誰にでも言ったな。僕の宣伝コピーにも入ってるし。実際、曲目のクレジットにもかなり入ってるし。

Akira:ジャック・ダグラスがバンドをまとめなかったら、未完成に終わったかもしれないアルバムですものね。ただこれはリリースまで、かなりの早業だったと思うんですよ。アメリカ発売が11月で、最初年明け1月21日発売ってスケジュールが出て、結局は緊急発売12月でしたから。

日米同時発売、日本先行発売の今と違って、輸入盤の(日本盤に対する)影響ってなかったんだよね。その理由は…あんまり(テープが届いてすぐ出すと)雑誌の締め切りにも間に合わないから不利だから…。理由は思い出せないな。当時あきらかに年があけると(お年玉時期終わると)、市場が冷めてたからかもしれないし、営業部のほうから早く出してくれという要請があったのかもしれない。でもわからないな、一昨日のトークショウじゃないけど、「記憶にございません」だな。

しかし…すごいよな。帯の裏の言葉。「このアルバムは、出来得る限り感度の良い再生装置によって、出来得る限りのフルボリュームで、加えて、体を動かしノリながら聴くことによって、それはもう更に深くて新しい魅力が発見できます」
これ、間違いなく俺のコピーだけど、笑うよね。表の「限界に挑戦、ロックンロールとリズムとの合体」っていうのと全然違うじゃん(笑)
おかしいよねー。これ、第三者的に書いちゃってるもん。私、双子座なんでね、もう1人の自分をもう1人が冷静に見たりするんですよ(笑)。

Akira:でも、担当アーティストの数が今より少なかったとはいえ、毎回毎々根性入ってますよね。

根性入ってるよね。当時の帯は。今は、CDになってキャップ(CD帯)になったせいもあるんだろうけれど、LPは「65ミリから80ミリだ。100ミリだ」ってどんどん大きくなっていって。最後は、クラッシュで“30センチ帯”をやったからね30センチ帯をやったら、もう完成でしょ、帯は。帯に言いたいことを全部を表現するってので、やったんだから

でもね、黄表紙(ウォーク・ディス・ウェイのインタビュー)で佐藤さんが「クイーンを買いに行ったんだけど、エアロスミスのコピーを見て思わず買ってしまったんです」ってのは「ありがたいねえ!」って。昔は“帯大賞”ってのが雑誌の企画であって、僕はもらったことはないんだけれど、いつかその賞をもらいたいなと思ってたんだ。

・・・それからね、お願いだから、シングルのコピーをどうのこうのってのはヤメて。本気で書いてないんだから(笑)。基本的には、シングル盤は売ろうとしてないのよね。アルバム主体で。エアロスミスはアルバム・アーティストで、シングルは売れないと思ってた。シングル盤を出すっていうのは、当時はファンサービスみたいな一面もあったんだよ。

Akira:すいません。今度直しておきます(笑)

アルバムの帯は、原稿用紙を前に「う〜〜ん!?」と悩んで書いて、文字校があがってきた時に直して・・・っていろいろやってるんだけど、シングル盤は進行スケジュールが短いのね。だから、シャカシャカシャカっと書いて、「これでいいや!」 これを今、どうのこうの言われてもね、子供のころのイタズラを、今になって何でそんなことしたんだって言われてるのに等しいよね。「だめよ、○○ちゃんをぶっちゃ!」…って。はいそのとおりですけど、それは30年前の話で、今言われましても・・・(笑)。

(文中敬称略)

CBSソニーで最後に担当した
問題作『ドロー・ザ・ライン』
1977年12月日本緊急発売
(アメリカ盤は11月発売)


先行シングル「ドロー・ザ・ライン」
1976年12月5日発売
この時点ではアルバムは年明け
発売と告知されていた

伝説の30センチ帯!
上の赤いのが帯です
クラッシュ『パール・ハーバー'79』
完全にLPジャケを隠してます

赤い帯の下にはコレ↓
USデビュー盤が隠れていた
(USデビュー盤は、UK盤『白い暴動』と選曲違いだった。こちらのほうが良いというファンも多い。しかもシングルのオマケつき)
[クラッシュ画像提供]
CAREER OPPORTUNITIES
THE CLASH
thanks to Mr.TAKU


パート3
特別付録(準備中)




Copyright : Akira 1999-2004